その人に愛されたいと感じたら、その人への愛が始まっている。
愛することより、愛されることの方が根源的だから。
人は愛されることで愛を知り、愛することができるから。
愛されることは、自分の存在を承認されること。
自分がこの世に存在していることが承認され、祝福されること。
「私は生きていてもいいんだね?」と思えること。
世界側から自分に対して、関心を向けられること。
愛されること、すなわち心理的距離の受動体験は、自分がこの世界で孤独から救われる貴重な体験。
愛されること、それは存在する者を生かす他者からの恵みである。だから、いつでも愛されたいと望みなさい。
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これは誰の言葉だろう
(※後から調べたところ、山根一郎さんの「心理的距離からみた恋愛現象」というページでした。男性のキマジメな恋愛論(?)って不可思議で難しげで面白い。)
私もそう思う。
愛されたいと愛したいって同じ。癒されるのと癒すのも同意。自愛と他への愛も同意。
「女性性の時代」というのは「新たなる男性性の時代」でもあります。
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恋に落ちたとして、その人に愛されたいと思う。
結局、その人じゃなかったらダメですよね。
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「愛されたい」ってさぁ・・自分の望み・歓びが他人本位な感じがする、相手ありきなニュアンスがして、相手がいないと自分で自分を幸せにできないのかよ私はよー、みたいな。
・・・そう思ったりする!・・・いいプロセス!
だからぁ、相手ってのは、自分の内側の男性性の投影にすぎなくて、女性性を育んで、自分の男性性を育てていって、内側から満たされましょう。相手がいてもいなくても、心から安心して幸せを感じるのは、一人で充分なのです。たとえ誰もいなくても。天と地と繋がってね。
・・・うん。そう思います!
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これはプロセスです。ひじょうにいい感じの。でも100%では納得しない自分がいませんか?
そう、現実が伴わないからです。実際に現実で愛する人に愛されて、目の前にいて、肌が触れあって、望んで望まれて、、という「現実」。
頭でわかったわ。心でも感じるわ。・・・で。
愛されたいって根源的だし、実際の特定の異性を望んでいいに決まってる。それのが自然です。どこも恥ずかしいことじゃない。いい年してアホじゃなかろうかと蓋しなくていいピュアなエネルギーですね。
愛されたい、って愛してるのと同じなんだし、
この人に癒されたいって思うとき、同時に相手を癒したいって本能が思ってるし、実際癒しています。女性性がどんどん解放されて癒されるべきっていわれる時代、同じく男性性も癒されるべきって、フツーに思いますよね。
それってとっても自然なことで、でも自愛を追求した先に、なおのこと感じられることかもしれません。自分を愛するにフォーカスしてたら、
あれ?同じことだった、と。
だから、無限の愛とか無条件の愛とか、タントラちっくなフリーな愛とか、よくきくし何か迷いそうになるけれど、「特別」な誰かに死ぬほど愛されたいって思うことって、
超自然。
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自分をとことん愛することができる人が、誰かを愛することができる。
そのためには誰かにとことん愛されること。
って!!なんじゃこりゃー
笑
自分を愛するって意識を持ち続けていれば、
それもこれも全部同じことだとわかります。
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誰かに猛烈に愛されたいよー
もう一度恋がしたいよー
女として魅力的になりたいよー
という心の声を、一体誰に遠慮してるんでしょうね?
素直でいいじゃない。
遠慮してると、死ぬ前に後悔するよ。